美術鑑賞ノート

Instagramに載せている美術展の感想文です。ただいま移行作業中。

「歌川国芳 木曽街道六十九次之内」(川崎浮世絵ギャラリー)

1852-53年に発表、木曽街道69の宿場に日本橋・京都を加えた合計71図+目録ですが、本作は名所絵の要素は薄く(画面左上に小さく描かれる程度)、地名にかけた歌舞伎・読み本などを題材とした物語絵中心の連作。例えば写真の蕨なら「わら・び」→藁・火(南総里見八犬伝の火遁のシーン)、追分なら「おいわ・け」→お岩さんというような要領で展開されていきます。当時の事情としてこれだけの素養がどれほどのものだったのかわからないのですが、ストーリーの細かいところからも題材を持ってきている印象があり、ただネタにしているだけではない、作品それぞれの理解を深さを感じて降りました。そういった経緯で今回はキャプションが72点全ての作品について付されており(川崎浮世絵ギャラリーの山本野理子さんによる、なかなかの労作だと思います)、読む効率を考えるとカタログ(1部1000円)を検討しても良いかも。
個人的に技術的に面白いと思ったのが高崎。歌舞伎《桜門五三桐》に登場する大明国の将軍此村大炊之介(このむらおおいのすけ)が自害し、掛軸の鷹を出して血で書いた遺書を託すという劇的なシーンなのですが、その画面が非常に装飾的に感じました(1枚目、画像はパブリックドメインより拝借)。そのほか半透明の幽霊や闇よに浮かぶ千手観音、細かい見どころですとタイトルを囲っている枠が子犬や小判などになっていたり、なかなか観ていて楽しくなってくる作品群です。特に高崎のようなものになると絵師のみならず彫師・摺師との連携が重要になってくるはずで、幕末の浮世絵の、ひとつの技術的頂点と言っても良いかもしれない水準の高さを感じました。

「写真と絵画−セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策」(アーティゾン美術館)

アーティゾンが擁する石橋財団コレクションと現代芸術が共演する「ジャム・セッション」シリーズの第三弾。
柴田敏雄はダムや橋などの人工構築物を題材とする写真家。子供の頃の家族旅行、父親が運転する後ろで兄とのゲームにも飽き、交通渋滞でうんざりしながら後ろの席で観ていたあれですが、写真として改めて観てみると、自然に寄り添う形で制作されており、あのときの私が思ったほどに画一的なものでは無いことに気づきます(同時に円空仏が展示されていたのはその暗喩ということかなと)。そこに柴田の脱意味的な、三次元の構築物を二次元としての「画面」の流儀に従わせるような撮影手法が加わり、ある時は壁面に貼りつけられた水面が波打ち、ある時は普通はありえないキュビスム的な表現が実現されていたりするなど、「事実を写すもの」という写真に対する通念が強ければ強いほど、画面上で起こっている出来事に混乱し、同時に強く驚かされます。「何を描くか」よりも「(構図・色彩などの観点から)どう描くか」を重視したのはセザンヌの特徴ですが、それは柴田の手法にも共通するものであると思いました。
 
鈴木理策は画家たちの視線を意識した撮影手法で、モネならジヴェルニーの池を、セザンヌならアトリエを訪れるというような手法も取られているのですが、その接近の程度が尋常じゃないように感じました。
例えば私がセザンヌのアトリエでカメラをパシャパシャしても、それは所詮資料というか、加藤某による「記録」から抜け出すことはまずありえないですけど、ピンぼけを恐れない、しかし鮮烈な色彩はまるで画家自身の「記憶」を表現しているかのよう。鈴木の「解釈」が、当事者の内面にあったドラマをも表現しようとしているように思えて、しかもそれはあながち間違っていないんじゃないかという説得力がありました。
今回は写真を載せなかったんですが、マネの自画像などとともに並べられたポートレートはモデルに鏡のみを見せた状態で撮影を行うことにより、モデルがカメラマンに「見られている」という意識を取り去ったもの。カメラマンとモデルの関係を排除することでモデルをヒトではなくモノとして取り扱おうという試みでもあり、それもまたセザンヌ的と言えます。
 
タイトルに「セザンヌ」を冠しつつ、一見すればセザンヌだけではない作品の展示に一瞬「?」となりますが、二人の写真家の手法はセザンヌのそれを起点とするもの。行ったのが夜間開館でタイムリミットがあり、他の2つの展示もあわせてなかなかペース配分に狂わされることにもなりました。今後図録を少なからず読み返すことになるだろう、素晴らしい展示だったと思います。⁡