美術鑑賞ノート

Instagramに載せている美術展の感想文です。ただいま移行作業中。

「写真と絵画−セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策」(アーティゾン美術館)

アーティゾンが擁する石橋財団コレクションと現代芸術が共演する「ジャム・セッション」シリーズの第三弾。
柴田敏雄はダムや橋などの人工構築物を題材とする写真家。子供の頃の家族旅行、父親が運転する後ろで兄とのゲームにも飽き、交通渋滞でうんざりしながら後ろの席で観ていたあれですが、写真として改めて観てみると、自然に寄り添う形で制作されており、あのときの私が思ったほどに画一的なものでは無いことに気づきます(同時に円空仏が展示されていたのはその暗喩ということかなと)。そこに柴田の脱意味的な、三次元の構築物を二次元としての「画面」の流儀に従わせるような撮影手法が加わり、ある時は壁面に貼りつけられた水面が波打ち、ある時は普通はありえないキュビスム的な表現が実現されていたりするなど、「事実を写すもの」という写真に対する通念が強ければ強いほど、画面上で起こっている出来事に混乱し、同時に強く驚かされます。「何を描くか」よりも「(構図・色彩などの観点から)どう描くか」を重視したのはセザンヌの特徴ですが、それは柴田の手法にも共通するものであると思いました。
 
鈴木理策は画家たちの視線を意識した撮影手法で、モネならジヴェルニーの池を、セザンヌならアトリエを訪れるというような手法も取られているのですが、その接近の程度が尋常じゃないように感じました。
例えば私がセザンヌのアトリエでカメラをパシャパシャしても、それは所詮資料というか、加藤某による「記録」から抜け出すことはまずありえないですけど、ピンぼけを恐れない、しかし鮮烈な色彩はまるで画家自身の「記憶」を表現しているかのよう。鈴木の「解釈」が、当事者の内面にあったドラマをも表現しようとしているように思えて、しかもそれはあながち間違っていないんじゃないかという説得力がありました。
今回は写真を載せなかったんですが、マネの自画像などとともに並べられたポートレートはモデルに鏡のみを見せた状態で撮影を行うことにより、モデルがカメラマンに「見られている」という意識を取り去ったもの。カメラマンとモデルの関係を排除することでモデルをヒトではなくモノとして取り扱おうという試みでもあり、それもまたセザンヌ的と言えます。
 
タイトルに「セザンヌ」を冠しつつ、一見すればセザンヌだけではない作品の展示に一瞬「?」となりますが、二人の写真家の手法はセザンヌのそれを起点とするもの。行ったのが夜間開館でタイムリミットがあり、他の2つの展示もあわせてなかなかペース配分に狂わされることにもなりました。今後図録を少なからず読み返すことになるだろう、素晴らしい展示だったと思います。⁡